集英社ビジネス書

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あとがきにかえて

 お金、ビジネス、子どもの教育、そしてさまざまな人生の試練をどう切り抜けていけばいいのか、タルムードの説話に沿ってユダヤの考え方と実践的な知恵を紹介してきた。ユダヤの説話や格言は、庶民の一人ひとりが豊かで幸せな生活を送れるように、具体的な手ほどきに満ちている。これに対して日本には、痩せ我慢を強いたり、権力者に対する自己犠牲を美化したりする格言や説話が多いように思える。日本の格言や説話をその通り実行していたら、庶民は不幸せになり、権力者(政治家や官僚)だけが豊かになるのではないか。
 私はこの違いに気づいて愕然(がくぜん)とした。これからの日本人には、ユダヤのタルムードの知恵に学び、庶民から金を取り上げようとしている権力者の悪を見抜き、企みを見破り、しっかりと自己防衛して欲しい。ユダヤの現実主義を知っていただき、一人ひとりが自分の幸せをみつけるために本書を役立てて欲しい。これが、本書の執筆の動機である。
 良き仲間や家族に恵まれ、幸福な人生を送りたい。そう考えるのは万国共通の人々の願いだろう。では幸福とは何なのだろうか。本書でも繰り返し述べてきたが、ユダヤでは、五〇〇〇年の歴史の中で、金銭的・物質的に満たされることと幸福(Happiness)とは関係ないと教えて来た。ユダヤの教えでは幸福とは幸福感のことだ。ある人が不幸と思っていることでも幸福感を感じる人はいる。要は心の問題なのだと教える。本書で紹介した説話の数々は、人を悩ませ落ち込ませる不幸感をどうすれば幸福感に変えられるか、そのヒントを手を替え品を替えて人々に諭したものだと言っていい。
 本書の最後のまとめとして、ユダヤ教が教える、心の底から人生を楽しみ、幸福感を感じるための実行集を紹介しよう。

人をほめること

 人に認められほめられることほどその人に幸福感を与えることはない。されば、人にほめられることを単に待つのではなく、自分から人をほめてみよう。そうすれば、少なくともその人に幸福感を与えることができる。ユダヤでは、人に幸福感を与えることは自分に幸福感をもたらす一つの善行であると考える。「アレヌ レシャベア」といい、他人をほめることは一種の義務であるとすらいう。
 まずは、あなたにとって一番身近な存在である妻、夫、そして何よりあなたの子どもたちをほめることから始めてみてはどうだろうか。

自分がなぜ生まれて来たか、を考えること

 自分が死んだあと残された人々が自分に対しどう言ってくれることを望むか、ということを考えること。そうしないと、いくら働きずくめで働いても何のために働いているかがわからなくなり、結局不幸感が襲ってくることになる。
 なぜこの世に生まれてきたのか、ということは、人生の目標と違う。
 会社で出世することや、起業して儲ける、いい大学に入ることは、現実的な人生の目標と目的である。しかし、この世に生まれて来た理由とは、まさに画家ゴーギャンの言う「我々はどこから来て、どこに行こうとしているのか?」ということである。失業しても、恋人がいなくても、身なりが貧しくても、どんな人でもこの世に生まれた役割があるはずである。今の不幸を嘆くのではなく、この世での自分の役割とは何なのかを問い続けること。それが人生を切り抜ける力の源となり、幸福感につながっていく。

「善いこと」を毎日習慣として行うこと

 ユダヤ教は、理念理想をどう実現するかの具体論を戒律として持つ宗教である。その一例がMitzvot(ミツボ)というものだ。ミツボとは、身寄りのない老人の世話をするとか、病人を看病するとか、ホームレスの人に小銭を渡すとか食事を提供するとか、色々の善行を実行することである。ミツボを行うことが、自分がこの世に生まれてきた目的の日常的具体化であり、毎日一歩でも近づけ、とユダヤ教では説く。もちろん、最大の善行は、トーラー(モーゼ五書=ヘブライ聖書)の勉強であることは言うまでもない。

喋るよりも聞く

 幸福感は「喋る」よりも「聞く」ことによってもたらされる。ユダヤはシェマの宗教である。シェマとは「聞け」ということ。ユダヤ教では人間に耳が二つあるのに口が一つしかないのは、よく聞くことが幸せをもたらすことだと言われているのである。
 人の話をよく聞くことは、@その人の存在を認めること Aその人に心を開いていること  Bその人を尊重すること、につながる。人の話を聞かないことは、@その人の存在を無視すること Aその人に心を閉ざしていること Bその人を軽視していることになる。傍らにいて自分に話しかける人間を大切に迎えるのか、それとも後者のように冷遇するのか、どちらが自分にとって幸福感をもたらすかはあきらかだ。
 ユダヤ人の友人でパリで猛烈に働いている男がいた。彼はパリでも有名な富豪であったが、結局妻に離婚された。その友人は私に言った。「彼女には、欲しいというものは宝石からバッグまでどんな高価なものでも買ってやった。地中海を旅するクルーズ・ボートも買ってやった。旅行に行きたいと言えば、いつもファーストクラスに乗せてやった。何一つ不自由はさせていない。なぜなのか?」と。私は敢えてコメントは控えたが、彼は、妻に物やお金は与えたが、心を開いて妻の話を聞いてあげることをしなかった。だから妻は彼と一緒にいて幸福感を持てなかったのである。
 話を聞いてくれれば幸福な思いに満たされる。ならば傍らにいる人に幸福感を与えようではないか。そうすれば自分も幸福感(人を幸せにしたという幸福感)を持てる。

魂をあらゆる騒音から遮断する一日を持つこと

 ユダヤでは、強制的に週一回、家族との時間、それも何物にも邪魔されない時間を持つことを戒律としている。その時は、電話も、テレビも、仕事もだめとされている。携帯、eメール、ファクシミリ、電話、コピー、スキャン、グーグル、パワーポイント、プリンター、と我々はテクノロジーに振り回される日常を送っている。私の若い頃はデスク上には電話以外何もなかったが、今よりも充実感があった。すべてのテンポがゆったりとしていたからだ。
 我々は携帯とeメールに支配されている日常から、少なくとも週に一日は解放され、「つれ合い」(つれ合いがいなければ犬や猫、ペットがいなければ“神”)と、ゆったりと語り合う時間が必要だ。幸福感とは、息と同じで「吸って」「吐いて」の両方がないと流れないのである。息をする時に「吸う」だけをやれと言われたら死んでしまう。どこかでゆっくり「吐く」必要がある。息を吐く、これをユダヤ教ではLiberate yourselfと言う。自分自身をあらゆる締め付けからLiberate(解放)してやれということだ。そうすれば、「吸って」「吐いて」が調和し、それが幸福感につながると教えている。

不運が襲って来ても、その不幸を幸福感の持てる他のものに作り変えられるまで不運とバトルすること

 どんな人間でも一生の間に不幸や不運に見舞われることが絶対にある。交通事故に遭うかもしれない、目の病気で失明するかもしれない、滑ってころんで下半身不随になるかもしれない。そんな時に、どう幸福感につなげていくか?
 ユダヤでは「Transform suffering」と教える。ある夜、天使に襲われ朝まで格闘したという不運を味わったヤコブの話は、不運にどう立ち向かうかのユダヤ人の基本書になっている。ヤコブは襲われても絶対にあきらめずに戦った。Sufferingは受難、苦難、不運、不幸、Transformは作り変えるという意味である。苦難の犠牲者になることを絶対に拒否し、希望の灯りをともせる何か他のものに作り変えるまで戦い続ける、というのがユダヤ人の五〇〇〇年の苦難の歴史から生み出されたウィズダムである。
 ユダヤ人の受難は枚挙に暇(いとま)がない。ホロコーストで六〇〇万人が殺された、古(いにしえ)にはバビロニア帝国に民族ごと拉致された、ローマ軍に完全に神殿を破壊された、ギリシャ軍からはユダヤ教の儀式や祈りを禁止された、十字軍からは虐殺された、中世ではゲットーというじめじめした狭い地区に閉じ込められた、農業も工業も禁止された。しかし、ユダヤ人はこれほどの苦難をTransformして幸福を見出せるものを創り出してきた。
 モーゼの偉大な言葉に「ウバハルタ バ・ハイム」というものがある。「生き抜くのだ。この生をこの命を」という魂の叫びである。ユダヤの乾杯の言葉は「レ・ハイム」という。ハイムとは「この命、この人生、この生、今生きているこの時」という意味だ。
 日本人に、今、この時を力強く生き抜いて欲しいという思いから、本書では、つい日本人への見方が厳しくなってしまう部分も多々あった。しかし、私のメッセージは唯一つである。 日本人の皆よ、苦難の犠牲者(Victim)になってはならない。Transformしていこうではないか。受け止める、乗り越える。耐えることではなく、それを別の光の見えるものに作り変えるまで、不幸と戦い組み伏して行くのである。

二〇一二年 三月 スウェーデンの自宅にて   石角完爾

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