集英社ビジネス書

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はじめに


●78歳、料理研究家、6年前からひとり暮らし

 こんにちは。村上祥子です。

「あ、電子レンジ料理の人だ!」と思い浮かべてくださる方もいるでしょうか。これまでにたくさんの電子レンジを使ったレシピを雑誌やテレビで紹介してきました。「にんたまジャム®」や「たまねぎ氷®」などで知ってくださっている方もいるかもしれません。
 出版した料理本はいつのまにか単行本だけで500冊を超えました。50年この仕事を続けていますから、イベントで「お母さんが、村上先生の本を持ってました!」と声をかけられることも最近は多くなりました。これまでに紹介したレシピが、どこかの家庭の懐かしい味になっているとしたら、とても嬉しいことです。

 今年(2020年)の春は、世界中が新型コロナウイルスの感染拡大に巻き込まれて、あれよあれよという間に生活が一気に変わってしまいました。緊急事態宣言が出ていた間は私も自粛生活を心がけて、福岡で自宅ごもりの日々を送りました。

 それまでは、3日と同じ場所で寝ていないのではないかというくらいにあちらこちらを飛び回っていたのですが、出張の仕事はすべて延期やキャンセルになりました。単行本も雑誌の連載も撮影はストップ。自宅のキッチンスタジオでの料理教室もお休み。思いがけず時間ができましたが友人と外食するわけにもいきません。
 そんな状況の中、私がどうしたと思います?

「できないことはやらない!」

 そう、決めました。

 だけど、変わらない日常もあります。私にとってそれは、「毎日料理をすること」です。料理といっても、ひとり暮らしの今は、自分ひとりのためのもの。自分の身体や心が本当に「食べたい」と望んでいるものを食べます。

 たとえばこんな感じ。
 起き抜けには目覚めのミルクティー2杯。「にんたまジャム®」を1さじペロリ(毎朝の習慣です)。
 朝は、発芽玄米ごはんと納豆、温泉卵と具だくさん(肉・魚と野菜)のみそ汁。
 昼は、手軽にサンドイッチ。市販の鮭の幕ノ内弁当を買って食べることもあります。
 夜は、お昼に不足していた食材、といえばいつも野菜ですがそれをプラス。市販のおでんでもOK。だけど、そこに青菜200gをレンジで「チン」して水にとってしぼったものを加えます。

 冷凍や電子レンジ、マグカップ料理などをフル活用しています。詳しい話やレシピなどは後ほどゆっくり紹介します。

 食事の時間以外は「今できること」を。掃除や洗濯などの家事もあります。ひとり暮らしなので、ゴミを1階の倉庫まで持って行ったり郵便物を取りに行ったりというのも私の役割。仏壇のお水を毎朝取り替えて、掃除をしてからお参りします。6年前に亡くなった夫や懐かしい両親のことを思うひとときです。

 外での仕事はキャンセルや延期になりましたが連載の原稿仕事はあります。その執筆をしたり新しいレシピを考えたり。始終、頭の中はアイデアと「ひらめき」でいっぱい。思いついたら、早速スタジオで試作。それをまたテキストにして……と、1日があっという間に過ぎていきます。

●社宅に暮らす主婦から料理研究家になって50年

 料理研究家になって50年が経ちました。
 子どもの頃から食べることが好きで、料理することも大好きでした。人に料理を教えることになったきっかけは、結婚後の社宅暮らしの中でのつきあいにありました。

 私が結婚したのは昭和39年(1964年)、大学を出たばかりの22歳でした。8歳上の夫との新婚生活が始まったのは福岡県北九州市のアパート。お風呂はないから銭湯通い。帰り道はアイスキャンディーを頬張って、ふたりで下駄をカランコロンと鳴らしながら歩いたものです。1年後に木造社宅に引越し。2年後に、夫が東京本社に転勤になり、杉並区のアパートに引越し。東京暮らしが始まりました。

 年末におせち料理づくりに精を出していたら、夫が「同僚にお裾分けしてあげたい」と言うのです。理由を聞いてみたら、その方の奥様はアメリカ人でアンさん。正月料理は毎年「蜂蜜を塗って焼き上げたハムのかたまり)」。私としてはそちらに興味津々ですが、日本人男性として食べなれたおせち料理が恋しい気持ちもわかります。どうせ手間は一緒。大晦日に容れ物を持っていらっしゃい、と夫妻を招いて、当時四国でひとりらしだったしゆうとも交えて年越しのお祝いをすることになりました。

 夫婦ぐるみですっかり仲良くなった私たちは、翌年、中野区中野坂上の社宅に引越し。まだ20代で元気いっぱいの私は、向かいのアパートに住むアンさんのところまで階段を駆け下りて、駆け上がって、麦とろ飯やきゅうりもみなどをお裾分けしていました。アンさんが「夫の誕生日に卵焼きを作って驚かせたい」と言ったときには「卵4個とフライパンを持っていらっしゃい」と、社宅の小さなキッチンで作り方を教えました。

 そんなことが続いていたある日、アンさんが東京アメリカンクラブで「日本人男性と結婚している外国人女性」の方たちに私のことを話したことから「私も習いたいわ!」と人が集まり、『日本の家庭料理を学ぶ会』ができたのです。生徒は12人。このときから私は「料理の先生」になりました。結婚して5年が過ぎていました。3歳、2歳、0歳児の母でもありました。

●料理コンテストで優勝! 料理研究家デビュー

 32歳のとき、大分からカリフォルニアアーモンドの料理コンテストに応募。最後の決勝に残りました。ちょうど、夫が東京本社に転勤。コンテストに出場したら優勝。アメリカ旅行に招待されました。これがきっかけで、料理研究家として雑誌『ミセス』でデビュー。1年後にはいろいろな方面から声がかかり、『栄養と料理』『マダム』『婦人公論』『家庭画報』などの料理雑誌、婦人誌の料理ページを担当することになりました。

 あるとき、私を紹介する記事が掲載された週刊誌に夫の名前や会社名、肩書までが出てしまったことがありました。日頃は私の仕事に理解のある人でしたが、このときばかりは「僕のことをおおやけにするのは控えてほしい」と釘を刺されました。彼の仕事がやりづらくなってはいけません。本当に申し訳なかったできごとでした。

 そんなこともあって、夫に北九州市への転勤の辞令が出たとき、すぐ、決めました。「いったんメディアの仕事をやめて、東京を離れよう」。結婚したときに、地の果てまでもついていくと決めていたのです。長男と長女は私立の中学生、次男は小学5年生になっていました。

「せっかく名前が出始めたのにもったいない」と惜しんでくださる方もありました。でも、仕事はいつかまたできるという気もちがありました。
 撮影のために買い集めていた鍋や什器じゆうきは、クリアランスセール。料理教室の生徒さんに分けました。大量にあったアメリカ製の保存容器は、お別れパーティ用に作った料理を詰めて、もらってもらいました。

 さっぱり身軽になって、東京の世田谷区成城から北九州への引越しです。

●20台の棚に並べた資料が料理研究家としての転機に

 40代の前半には、子どもたちが順に我が家を巣立っていきました。大学進学で、まず長男が。その翌年には長女も大学進学でひとり暮らしを始めました。それから3年後、末っ子の次男も同じ理由で家を出ることになりました。にぎやかだった5人家族が、夫婦ふたりだけの暮らしに戻ったのは、47歳のときでした。成城から北九州に移って、10年が経っていました。

 そのタイミングで社宅暮らしに終止符を打つことに決めていました。
 成城の家を処分して福岡にスタジオ兼住居を新築。と同時に、万一夫が本社転勤になったときのために目黒区三田にマンションを購入。そうしたら新居完成直前に夫が東京本社に転勤! 1989年3月は夫、次男、私の3つの引越しを同時に行いました。
 ところが夫はその年の6月にまた福岡に戻ることになり、マンションが空きました。

 しめた! チャンス到来です。

 リフォームしてスタジオにしよう。足場ができた私は東京での仕事を再開。航空券の回数券を買って、福岡と東京を往復する自称「空飛ぶ料理研究家」の始まりです。

 目黒のスタジオを港区西麻布に移転したのが、54歳のとき。それからの2年間、メディアの仕事はあふれるように来ましたが、ただ料理ページを埋めるためのものばかり。

「ちゃんと食べて、ちゃんと生きる」。これを伝えたい一心で、東京進出をしたのではなかったのか?

 自問自答を繰り返します。

 大学で栄養学を学び、糖尿病の予防改善の食事を研究し、開発した資料やエビデンスが50万点近くありました。その資料を東京に運ばなくては。「ムラカミは仕事の手早い何でもこなす先生」というイメージを打ち破らなくては……。
 高さ230cm、幅90cm、奥行き21cmのスチール棚20台が入る物件を探し、見つけた西麻布のスタジオ。
 ビルの最上階に住んでいる大家さんの了解を得て、『ゲルニカ』の飾ってあるスペインの美術館をまねて改装。この資料が功を奏し大手食品メーカーの顧問になり、雑誌、単行本、新聞、テレビ出演、講演など、仕事が増えました。
 東京- 福岡の往復は頻度を増し、1日に3回飛行機に乗るようなこともありました。いつだったか、それが2日続いたときには航空会社から「搭乗の予約をお間違えではないですか」という電話がかかってきたこともありました。

●そして今。ひとり暮らし7年目

 西麻布のスタジオを畳んだのは5年前。夫が亡くなって1年後のことです。長年、料理研究家として仕事をしてきましたが、メディアの潮目が変わった実感もあり、地元の福岡で“自立したシニアでいるための料理に力を入れたい”と思っていたこともありました。

 夫はリタイア後はもちろん、会社員時代から私の確定申告を引き受けてくれました。経理面でも精神面でもサポートしてくれました。心強くてありがたい存在でした。頼もしいパートナーであった夫を見送ったとき私は72歳。そのあと3年くらいは、心の中に大きな喪失感を抱えたまま過ごしていたと思います。

 生きていればいろんなことがあるのは当たり前。人生は、目の前を片づけながら進むしかないと思っています。

 私は、今も変わらず、毎日料理の仕事をしています。

 これまでの「50年」という長い時間の間には、様々な変化がありました。
 夫の転勤や子どもたちの成長、親の看取りなど私自身に起こった個人的な変化もたくさんありました。また、主婦が外に出て働くことに対する意識の変化や、便利な電化製品の開発など社会の変化もありました。その中で、いつも変わらなかったのが「ちゃんと食べて、ちゃんと生きる」ための料理への情熱です。



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